5年目に。
- Day:2016.07.12 09:03
- Cat:日々の雑記
Day0(デイゼロ)とは、移植の日のこと。移植した大学病院の医師たちがそう呼んでいたので私も真似して呼んでいました。急性前骨髄球性白血病(M3)と診断されたのが2009年12月。半年の抗がん剤治療の結果寛解に導くことができ退院。でも、2010年の12月に再発。
2011年の年明けから、また抗がん剤治療が始まりました。自家移殖が出来れば家族からのも骨髄バンクも必要としない。自分の細胞を入れるのだから拒絶反応も出ない。自家移植に向けてはただひたすら抗がん剤でもう一度「寛解(癌細胞が無い状態)」にすること。きれいになったところで自分の造血幹細胞を採取する。そしてそこから強力に抗がん剤で私の体の細胞を叩く。良いものも悪いものも叩き切ったところで、採取してあった自分の造血幹細胞を体内に戻す。これが自家移殖。
私の闘いにはラッキーが転がっていました。
地元帯広の病院でまず寛解状態に持ち込むときに、残念ながら通常回数では寛解に至りませんでした。だけどその時の主治医が体力が大丈夫そうだからあと一回やってみようかと聞いてくれ、その最後の抗がん剤で寛解になることができました。
札幌の大学病院はベッドが空きづらいのに、たまたまつてがある主治医が学会で教授に会った時に私の話をしてくれたら、受け入れを整えてくれたこと。これもラッキーでした。人の縁のありがたさを感じました。
そして、転院した大学病院でのこと。造血幹細胞を採るために白血球を増やす注射をする。血液中にある一定の割合で細胞が採取できなければ量が足りずに移殖が無理。その注射もものすごく痛い。全身がギシギシ音を立てるような。何度やっても必要量に満たず、その日の朝も注射をしたのに採血することなく、なんと主治医たち朝カンファの判断はもう自家移植は無理だろうとのことでした。でも、痛い思いをした注射を無駄にされたくなくて朝の回診で頼み込んだのです。「せっかくなんだから最後の一回採血してください」必死でした。それはラッキーというよりも私の粘り勝ちかもしれない。その最後の検査で必要量が満たされ自家移植までこぎつけることができたから。
他人からの移殖はせっかくドナーが見つかって移殖しても拒絶反応で亡くなる方も多い。そんなのは嫌だ。けど、ドナーすらいなかったら・・・死ぬことになる。そんなのももっと嫌。そんな思いで勝ち取った自家移植だったように感じました。
あれから5年。
移植後、たまたま起きた敗血症による高熱で、寝たきりとまったく食べられない日々で無くなってしまった筋肉も今ではほぼ戻りました。それでも未だに1か月前よりも体力の回復を感じるのだから完全復活ではないのかもしれません。5年寛解を維持することができれば治癒と判断されます。今日は血液内科の受診日でした。血液検査の結果は合格。ただ、今月末に最後の骨髄穿刺検査をする予定。それでも陰性だったら晴れて5年目の太鼓判ということになるのでしょう。
死ぬのが全く怖くなかったあの闘病生活。死んでもいいや、ではなくて「背水の陣」といった感じかも。精一杯やって死ぬならしかたない、と思えました。でも最近は「死にたくないよなぁ」と思います。あたりまえの世界に戻ってきたのかもしれませんね。
しかしまぁ、闘病中は常に前向きでした。私は出来る、ぜったい耐える、と目の前の抗がん剤や吐き気や抜け毛や湿疹と対峙するだけ。それまでの人生で人間関係とかぐちぐち悩んだ事も笑ってどうでもいいと思えた自分を強いとすら思いました。
今日、病院から戻る車を運転しながら少しだけジワっときちゃいました。私が闘病記をブログでつづっていた時にコメントをくれていた同種の病気の患者さんたちの数人は亡くなってしまいました。私は生きている。生きる道が残されたことに意味があるかはわからないけど、ちゃんと自分の人生を生きなくてはならないなとあらためて思います。
励まし 支えてくれた家族や友達、いろんな人に感謝をしたい今日という日でした。
